みなさん、こんにちは!
市川隆久です。
今日は、
私が今の仕事にたどり着くまでの話【vol.10】をお届けしたいと思います。
▼前回のお話しはこちらです。
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【vol.10】
「コスモ蕨」ですが、駅徒歩3分で150戸の大型物件でした。
モデルルームは敷地の一部が隣で線路沿いなので目立つ場所の物件でした。
普通なら大型物件らしく広告を派手に打ち出すことをやりますが、
競合の「ルネ蕨」という物件がコスモ蕨の先にあり、
ルネ蕨の方が300戸くらいの大型物件で毎週広告を大々的に展開してもらえたこともあり、
我々は小判鮫での集客をやり続けました。
リクルートの週刊住宅情報を月に1回、現地に目立つ看板を付ける。
チラシはほとんどやらなかったです。上司から言われた訳でもないですが、
自分で納得して小判鮫をしていました。それでもそれなりには集客が出来ていました。
競合物件と間違えでモデルルームに入ってきたお客様を知らん顔をして
接客して気に入ってもらう手法も結構やっていましたね。
60㎡のワイドスパン。間口8m奥行8mの南面三室。
今だと全てが狭いプランですが、当時は洗面や浴室が一回り狭く、
究極のプランと呼ばれていました。
しかも逆梁のハイサッシ。リビングには梁の出ないアンボンド工法。
外壁はタイルは貼ってなかったですが当時の埼玉ではグレードは高かったです。
販売の坪単価は当時の埼玉県の最高値の@135万円。
グロスは2400万円程度に最多価格帯をしました。
当時、国土法事前確認と住宅金融公庫の事前申請が必要でしたが、
コスモス社内での経験者はおらず、私が自分で書類を作成しました。
国土法事前確認の担当は浦和土木事務所で、
当時の担当者は「売値が高いが売れるのか?」というやりとりを何度も繰り返し、
遂には本広告の入稿期限ギリギリになってやっと認めて頂きました。
(私が高校の後輩だったことが良かったみたいでした)
後のバブル期では埼玉県の浦和、川口、大宮あたりの価格が
千葉や神奈川と比べて安く抑えられていたのは、
この担当者が認めないから、という嘘のような話がありましたね。
コスモ蕨は良く売れました。
LAさんもベテランの方が多く、私は集客を頑張っていればあとは売って頂ける、
というある意味楽な環境にいましたね。
(スキルという意味で楽でしたが、コミュニケーションは勉強をさせて頂きました)
私は2年目の秋から北浦和徒歩6分の
「コスモ浦和常盤」という99戸の物件を担当することになりました。
この物件は当時は経験の浅いLAさんとの仕事でした。
こちらは、当時にしてはグロスも3000万円を超えていて、
売る苦労を経験出来た良い物件と良いメンバーだったと思います。
12月が販売の初月で、40戸の販売目標まであと3戸くらいだったと思いますが、
クリスマスイブにもLAさんと宅訪に行っていました。
目標を追いかけていたので、そんなことは忘れていたのですが、
当時の支社長から電話を頂き、
「クリスマスイブに宅訪なんて凄い!」と褒められたことを覚えています。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
それではまた、次回の『コライチ』をお楽しみにして頂ければ幸いです。