私が海外不動産事業にたどり着くまでの話 Vol.4

コラム  2020/01/29

みなさん、こんにちは!

市川隆久です。

 

今日は前回の、

私が今の仕事にたどり着くまでの話Vol.3

続きをお届けしたいと思います。

 

▼前回のお話しはこちらです。

私が今の仕事にたどり着くまでの話Vol.3

私が今の仕事にたどり着くまでの話 Vol.2

私が今の仕事にたどり着くまでの話 Vol.1

 

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【VOl.4】

 

当時の社名は「株式会社日本リクルートセンター」ですから、男子学生からは無名です。

女子学生には「全くの男女平等な待遇」の会社ですから、人気はありましたね。

大学生の就職人気ランキングには、リクルート調べなので、

自社のことは載せていなかったですが、実際は女子学生での4位くらいの人気だったと聞いています。

男子学生は100位に入っていたかどうか、ということだったらしいです。

そんなわけですから、リクルートに入りたい、という学生よりも、

採用担当が、この学生を採用したい、というスタンスだったので、

いわゆる面接や試験などは大卒に関しては、

ほとんどしないところでの採用活動がポイントだったんですね。

 

 

採用担当は営業マンで、採りたい学生をいかに採用し、

入りたくても向かない学生にはいかに採用しないか、

という、ことを入社一年目から実践している。

なので、役員面接は付録のようなもの、でしたね。

そこそこ高い給料と若いときからの権限委譲。

今のリクルートはよく知らないですが、当時のリクルートは、見事に実践していましたね。

それもそのはず、若い社員しかいなかった、ということですね。

高度成長期の日本を作った企業では中々変換出来なかったタイミングで、

当時は早くからダイナミックな組織化を実現出来たのは、

その仕組みを早くから導入したこと、なのでしょうね。

江副さんは凄い方ですが、組織化できていたことが、

リクルート事件後も会社が成長出来たと思います。

 

 

まあ、良くも悪くもリクルートという会社は極めて合理的でありながら、

営業現場の力量を引き出せる仕組みをうまく持った会社だな、と思います。

だから、リクルート事件後創業者から離れても、利益を生み出すことにおいては、

一流と言える会社であり、リクルート出身者が辞めたあとにも、

各方面で活躍する人材を輩出していることに繋がる、と思います。

 

現に、海外不動産の創世記を作ったステージアキャピタルの奥村さんは

私のリクルート同期入社ですしね。他にも有名な経営者はいますね。

 

リクルートで一番大切なポジションの役職は、肩書きはいろいろありますが、

いわゆる当時の課長クラスだと思います。

しかも当時は20代で課長になれる会社で、実際私も27歳で課長になりましたが、

その時の経験が今の全てを作っている、と言っても過言ではないと思うくらい充実していました。

一言で言うと、

「数字とマネジメントの両方を要求され、自ら考えて実践した」

ということです。

 

実はこの話は、私が「今の不動産に関する基本的なスタンスを決めた大きな経験」につながります。

 

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それではまた、

次回の【コライチ】をお楽しみにしていただければ幸いです。