私が海外不動産事業にたどり着くまでの話 Vol.9

コラム  2020/02/12

みなさん、こんにちは!

市川隆久です。

 

今日は、

私が今の仕事にたどり着くまでの話【vol.9】をお届けしたいと思います。

 

▼前回のお話しはこちらです。

私が今の仕事にたどり着くまでの話vol.8

私が今の仕事にたどり着くまでの話vol.7

私が今の仕事にたどり着くまでの話vol.6

私が今の仕事にたどり着くまでの話Vol.5

私が今の仕事にたどり着くまでの話vol.4

私が今の仕事にたどり着くまでの話Vol.3

私が今の仕事にたどり着くまでの話 Vol.2

私が今の仕事にたどり着くまでの話 Vol.1

 

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【vol.9】

 

前回までは、私の新人時代の話でしたが、

今回は新人最後の3ヶ月。1985年1月からの話です。

 

1月からの人事異動で「北関東支社」に配属になりました。

北関東支社と言っても拠点は浦和。担当エリアは埼玉県。

当時は東京の他に「横浜支社」がありました。

配属されたメンバーは私を含めて4人。

(のちには年間供給2000戸、埼玉県供給戸数No1になる

リクルートコスモスを支えた支社になります)

H支社長、I営業課長、M企画開発課長に新人の私です。

地元採用で経理庶務等でOさんを加えて総勢5名のスタートでした。

実は配属の内示を12月に受けた時には当時のK専務から

「埼玉に支社を作る。社員は4人。事務所は君たちが探せ。以上」という、

お達しがあっただけでした。

 

※画像はイメージです

 

他は全員埼玉出身者。不動産ビジネスだからある意味正解でしたね。

みんなエリアのことなら詳しいですからね。

私は蕨駅前150戸の大型物件の営業責任者だったのですが、

新人だったので総務の仕事も含め何でもやりましたね。

支社長の運転手もやりましたね。

「手袋買ってやろうか」とも言われました。

支社の場所は我々の意見で浦和駅西口徒歩3分の新築の事務所にしました。

人が増えることを予想して50坪のフロアを確か借りたと思います。

 

事務所のパントリーの品物を揃えたりトイレのタオル交換をしたり、、。

その時思ったことは「仕事は段取りが大事」ということ。

これは今になっても有益な経験でしたね。

この事務所ですが、空調が効いてなくて、夏は暑く冬は寒い。

冬は1人に一つ石油ファンヒーターを机の近くに置いて仕事をしていました。

マイカー通勤もルールがあるやなしやだったので、

物件に行くことを考えて車で移動していましたね。

その2月1日から「株式会社リクルートコスモス」に社名変更しました。

 

「環境開発株式会社」から「株式会社リクルートコスモス」に変更することになりましたが、

電話での応対が恥ずかしくて、、

当初はなかなか鳴っている電話に出ることを躊躇したことを覚えています。

 

 

 

さて、仕事ですが、私が担当した「コスモ蕨」は、蕨駅徒歩3分、

当日は画期的なワイドスパンのキュービックプランが売りの商品力の高い物件でした。

仕入れ担当は武蔵さん、設計担当は高橋新さん、という、当時は凄いメンバーの仕事でした。

 

営業責任者は私。初のLA物件でした。

LAとはコスモスでの女性販売部隊「リビングアドバイザー」のことです。

当時は何と「レディース」と言われており、

人によっては「私はレディースです」と言っていた方もいましたね。

30年以上も前からリクルートグループは女性活用を積極的に行っていましたね。

私が20代半ばでしたが、彼女たちは私よりも世代が上の営業マンでした。

とにかく頑張る人が多くて、辛いこともありましたが、楽しかったですね。

私は現場責任者なので、みんなに頑張ってもらうことと新しく入った方には

営業を教える、ということをやっていました。私の責任が重い仕事に集客がありましたが、

集客が出来ないとLAさんたちに売ってもらうことも出来ない。集客が出来てこそ次に進む。

当たり前のことですが、毎週続けて行くためには社外の方々の協力があってこそ。

当時から広告代理店の方々や看板広告の方々とも仲良くやらせて頂きました。

今でもお世話になっている方もいらっしゃいます。……

 

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続きはまた次回の【コライチ】をお楽しみにしていただければ幸いです。